2004 6/19   P−Time(後編)

チベットの少女2
撮影:ソナム・ゾクサン

「ペマ先生、センゲは元気ですか?」
ナウシカが緊張をといでくれたので、思い切ってセンゲの消息を尋ねた。
「元気ですよ。」そうか、生きていたか。
「もう13才になったので、目は完全に見えなくなりました。
でも散歩へ行きますし、自分の事きちんとします。」
私は耳にした噂を伝えた。その噂を先生はご存知だった。
「ペマが最近元気ないのは、センゲが死んだせいだなんて言う人までいるのですよ。」
でもこういう噂はチベットでは吉兆なのです。余裕しゃくしゃくで答えた。
「死んだという噂が流れると、逆に長生きするのでチベット人は喜びます。」
「これでセンゲは長生きします。」
先生はそう言いきると、チベット人と犬との関わりについて話された。
チベット仏教の輪廻転生とは、あらゆる生き物は前世の行いの善し悪しによって、6つの世界の中で、無限に生と死を繰り返しているというものである。
6つの世界とは地獄界、阿修羅界、人間界、畜生界、飢餓界、天界であり、六道を指す。
もちろん生き物として生まれ変わる限り、あらゆる苦しみがついてまわる。
この輪廻の輪から抜け出すことが解脱であり、悟りである。
解脱を志して修行出来るのは人間だけであり、人に生まれ変わるのは尊いのだ。
またあらゆる生き物の中にあって犬は、人に生まれ変わる一歩前の転生とされていた。
ペマ先生がにこやかに断言した。
「センゲは、爺やの生まれ変わりです。」
私はモレスキン手帳のゴムをパチンと外すと、ペンを走らせた。
「 センゲは爺や 」
ペマ先生はチベット有数の名家の出身だ。生家は、使用人だけで何百人もいるアムド地方の大領主だ。
これは親ばかかもしれませんが、と前置きして言った。
センゲはいつも私の側にいて見守ってくれます。また時々私が羽目を外すと、叱ることもあるのです。ウーッウーッとね。センゲといると、いつも温かい大きな愛に守られているような気がするのです。人が犬を叱るのではなく、犬が人を叱るのだ。
さすがシッキム生まれのラサアプソ。やるじゃないか。
ナウシカは皆に触られ抱かれても、嫌がりもせずおとなしかった。
ところで、と私はこの気に乗じて用件を一気に申し述べた。
チベット文字を書いていただきたいのですが?
「いいですよ。書きましょう。」
ペマ先生が二つ返事で引き受けてくださった。
「ラサアプソの数は増えましたか?」「はい。」「300頭くらいになりましたか?」
「もっといると思います。」
私はマジックと落書き帳を出した。
毛筆なら色紙でも良いが、画像をインサートしたりするには白い紙が一番アレンジしやすいのだ。「ラマも達筆なのよ。書いていただきなさい。」秘書の関根さんが教えてくれた。
「何て書きますか?」皆が一斉に私を見た。
「ラサアプソ・ジャパン」皆一様にガッカリした表情を浮かべた。
釈迦の言葉か、経典の一説でもと期待したのだろう。
「ドッククラブ・ラサアプソ・ジャパンに該当する言葉がチベットにありましたらお願いします。もしなければ、それに近いニュアンスで結構です。チベット人がわかる言葉で書いてください。」
ペマ先生がチベット語は4種類も書き文字があるんですよ、と説明されながらサラサラ左から右に横書きした。「これは行書ね。」
坪野さんというチベット美人のような日本女性が、教えてくださった。
チベット文字には印刷で用いるウチェン体と、日常の筆記のためのウメ体がある。
ウチェンが角ばっているのに対しウメは曲線的で、さらに分けると行書体や草書体にあたる様々なスタイルがある。このほか修飾文字の書体もあって、チベット文字は流麗な美しさが特色となっているのだ。
ペマ先生がお書きくださった文字はどれもこれもすばらしいが、当然のことながら一文字も判読できない。これでは切り離したとき上下すらわからなくなる。
私はサインをいれて頂くことにし、横の紙に日本語でメモした。
アプソ犬。日本アプソ協会。アプソ会。日本。アプソ。ペマ・ギャルボ。
ヤッタアー!これで、トップのチベット文字とバナーは完成したようなものだ。
今度はラマ・ウゲン師にお願いした。
「何か良いお言葉を書いていただきなさい。」
坪野さんがハッパをかけてくださった。チベット語で知っている言葉はタシデレだけだったのでそれをお願いした。「タシデレ=こんにちは。ようこそ。」
ウゲン師はニコニコしながら丸っこい優しい字でタシデレと書いた。
私はラマ・ウゲン師にクラブ会員と、サイトへ来た全ての人々へのメッセージを依頼した。
ウゲン師はしばらくじっと考えていた。
チベット美人風の坪野さんが「これは本当に僥倖なのよ。」
と私の軽さをたしなめる様に諭した。「わかるかしら。ラマにこんな風に書いて頂けるなんて、素晴らしい幸運なのよ。」
ラサアプソは幸せを呼ぶ犬だ。今日の幸運はナウシカが運んだのだ。
静かに休んでいるナウシカをウゲン師は撫でていた。
それからサラサラとペンを走らせた。

生きとし生きるもが
幸せと幸せの因がありますように。
生きとし生きるものが
苦しみと苦しみの因から
離れられますように。
一切の苦しみがない
最高の幸せが得られますように。
 
ウゲン
ラマ・ウゲン師
 
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